Fishmans Night Osaka 2009

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 去る3月14日、フィッシュマンズという今はなき素晴らしいバンドの音楽だけを、一晩じゅう大音量でかけ続けるイベント、「Fishmans Night Osaka 2009」を、友人たちとともに開催しました。 
 99年にボーカル&ギターでソングライターの佐藤伸治さんが亡くなって、活動を停止したフィッシュマンズというバンドの素晴らしさは、どれだけ言葉を重ねてもぼくには語り尽くすことはできないので(というか、どんな素晴らしい音楽だって、そうでしょう!)、ここに無駄に言葉を重ねることはしませんが、人がその人生を託すに足る音楽であることは、間違いないと、思います。
 佐藤さんの死をきっかけに(全国で同時多発的に)始まった「フィッシュマンズナイト」、ぼくたちのイベントは今年で11回目、10年を数えます。そのあいだ、ずっとフィッシュマンズの音楽を好きでいられることに、感謝するような気持ちにさえ、なります。
 もう少し年長の、尊敬すべき音楽家細野晴臣さんの言葉。

 人に好かれて喜ぶっていうのが、ぼくにはよくわからないんだ。人に好かれて嬉しかったことってあんまりないんだよ。「自分が誰かを好き」っていうのは喜びだよ。でも、好かれて喜ぶっていうのは、よくわからない。自分が好きじゃなかったら、好かれることにはなんの意味もないからね。
細野晴臣分福茶釜』より)

 最近、友人のスギー・リトルバード氏(パタゴニアン・オーケストラという、御坊が誇る素敵な“呑んだくれ”バンドのボーカル&ソングライター)に借りて読んだ氏のインタビュー本の一節。
 何よりもまず自分が「好き」でいること、人に好かれてるかどうかなんて二の次で、ちゃんと自分が好きでいられるか、そのことがいちばん大事なんだ。そう言われている気がするのです。
 なぜなら、相手にどう思われてるかっていうのは、こちらではコントロールできない。あなたまかせ。いっぽう、自分の「好き」は、自分しだい。
 「自分の身に起こったことは、全て自分のせい」そう思い続けることができたら、幸せだろうな、ということを、ぼくは最近けっこう考えていて、“「自分が誰かを好き」っていうのは喜び”ということは、そのことに繋がる気がするのです。
 自分で好きでいるのだけど、好きであり続けることは、本当に自分でコントロールできるのか? たぶん、できないような気もする(さっきまでの話と、矛盾するみたいだけど)。けれど、それが10年、20年続いたら、やっぱり、喜びだと思うのです。自分ではなくて、その「好き」の対象に感謝したくなります。
 What a Wonderfull World!
 「ねたあとに、」でも、フィッシュマンズはたくさんかけるつもりですが、ぼくのDJはともかく、相方のターニーのDJは、誰かにとってのそういう「好き」の対象になると思います。ぼくが、請け合います。ほんとに。だから、お楽しみに!(Sakai)

*1:動画はフィッシュマンズ「いかれたBaby」Live in 1998